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孵卵

居間で宿題をしていたら誰が見るでもなく点いていたテレビのバラエティ番組でレポーターが得意気に声を張り上げた。

「こちらの大きなたまご。これはダチョウのたまごで、なんと世界で一番大きな細胞なんですよ。それでは今からたまご焼きにして食べてみたいと思います」

レポーターはたまごの殻に何箇所か工具で穴を開け、ハンマーで叩いて殻の一部を外し抜いて中身を巨大なアルミのボールに取り出し掻き混ぜた。ダチョウのたまごは1個で鶏卵40個分もの量に相当するらしい。だが私が気になったのはその大きさや硬さではなく、たまご自体が単細胞だというくだりだった。その場でスマートフォンのブラウザアプリを立ち上げ、Wikiの項を読むと、厳密には卵黄が1つの細胞であって、卵白や卵殻は別の要素らしい。テレビなのに間違ったことを言うんだなと少し気になったがブラウザを閉じて視線を42型に戻した。

レポーターはまだたまごを掻き混ぜ続けている。卵黄は鶏卵のそれより遥かに色素が薄い。卵黄を覆っていた白っぽくて薄い膜がどろっとした薄黄色の中身にまとわりついて、それが細胞膜なんだと思った。良く見ていると卵白は水様の部分と粘度の高い部分があり、後者はなかなか混ざらない。卵黄と卵白は、たまご自体の異様な大きさのせいもあるのだろうか、いつまで経っても良く混ざりきらずに白濁した半透明と薄黄色が折り重なって渦を巻いて、なんとなく不衛生に見えた。頭が悪そうな女のレポーターは、大きくてなかなか火が通りません、などとコメントしながら形の歪なたまご焼きを作った。絶対にひとりで食べきれる訳もないその量を、重さ故に落とすように大皿に乗せ、それではいただきますと笑顔で食べ始めた。私は吐気を覚えた。上手く自覚できないが、巨大な細胞をぐちゃぐちゃと掻き混ぜて絶対に食べきれない量のそれを馬鹿っぽい女が丁寧に口に入れる、という構図が気持ち悪かった。このままテレビを点けていると言いようのない気持ち悪さとそれを突然押し付けられた怒りで感情が沸騰しそうだったので横で観ていた親に無許可でテレビを消して更に、文句を言われる前に素早く宿題の教科書やノート、筆記具を片付けて自室に上がった。背後からもう急になんなの、観てたのに、などとぼやきが聞こえた。

世の中は無神経だ。先刻より更に怒りが込み上げて来た。誰も気付いていないのか。バラエティ番組の企画は無知で無神経だし、レポーターも自分が何をさせられているか気付いていないのに馬鹿みたいにへらへらしている。大画面を通して怪電波を国中にばら撒くことが許されている。誰も注意を払わない。親はその電波を何の配慮も神経を使うこともなしに私と同じ空間で受信する。私はそんな家庭で育ったし、まだしばらくここにいなくてはならない。そのすべての無神経さに腹が立って収まらない。既に自室の勉強机を前に椅子に掛けていたが、とても宿題の続きをしようという気が起きない。今まで何も思わなかったのに、親が買ってくれたこの机のシンプルだがやや丸みがかったデザインや赤みの強い塗料の色にさえ急に腹が立ってきた。

自由になりたい。くだらないテレビ番組が代表するすべての無神経さから自分を切り離したい。生まれて初めて自由になりたいと思った。今まで取り立てて不自由を感じたことはないが、突然今までの自分が何の疑問も抱かず決められた場所で与えられる餌を食べ最期には予定通り殺される家畜のように思えた。そうだ、気が付いた。私は無力な子供で、無力であることはある意味で不自由なのだ。だが不自由を自覚することで、それと対になる自由という概念が深く脳に刺さった。それは遠い幻のようにはっきりしないイメージとして捉えられたが、必ずいつか実体として眼前に現れるのだという強い存在感を放った。その瞬間、つい今し方までの怒りが違うものに転化したのがわかった。ただ勢い良く溢れ出そうとするだけで形も留めない熱いエネルギーが、熱を湛えたまま静かに握り拳ほどの球体に収まり、喉元から腹の底辺りまですうっと移動した。

ああ、と声が出た。

もう私は今までの私とは違うだろう。殻は割れてしまった。私は、たった今この世に産まれたのだ。眩しさでまだ世界が視えない。眩暈さえ覚える。ぐっと力を込めて両手を握った。開いた掌には爪跡がくっきりと残っていた。

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