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像 ―かたち―

寝る前に、温かいベッドの中で横になって、暗い天井に手を差し出してみる。手指を広げて、じっと見る。指がどんどん伸びていくような感覚。指の先からまた細かな指が伸びて、毛細血管のようにどんどん広がっていく。真暗な中で蠢き、天井を覆い、部屋を埋め尽くす。毛細血管の指で、もう天井も壁も見えない。暗闇にどんどん広がって、星のない夜空はきっとおれの手指でできている。これは一体なんの形だ。おれはアメーバではない。これはおれの形ではない。自分が人間であることを思い出すと、ふっと毛細血管の手指は消え、元どおりのおれの、四角い爪がついた手があるだけだ。気付くと心臓に圧迫感があり、動悸が早くなっている。

毛細血管の手指の幻影の名残りか、ごろりと向き合った壁に気持ちの悪い節くれだった脚が長く胴がぼってりした虫の姿が浮かんで見える。目を閉じても消えないので再び仰向けになり天井に手をかざし見る。先に行くほど枝分かれして、なんとも気持ちが悪い形状だ。これがおれの身体かと思うと良い気がしない。ただ眠ることがこんなに難儀になったのはいつからだろう。

近頃は昼夜を問わず、見るものすべてに違和感を感じる。道を行く女の顔、頭髪、道路の横断歩道の横縞、弛んだ電線、ガラスの反射、点描になっている青信号のLED、丸くなったシャーペンの芯先、カップの縁に付いた珈琲の滴。すべてが間違っている。正しいものは何もない。当然おれも間違っている。毎夜そんなことを考えているうちに疲弊して昏睡する。

日曜の昼過ぎ、女が訪ねて来た。父親の再婚相手だと名乗った女は、話があるとおれを連れて喫茶店に入り、父親が死んだと言った。おれは父親が死んだことは当然ながら、再婚していたことも知らなかったがそんな情報より女の汚い茶色に染めた太く艶のない髪が気になって仕方がない。この女も間違っている。

女は父親の財産の相続権は自分にあるから余計なことはしないように、持ってきた書類にサインをして印鑑を押せ、という旨を話した。おれの前に書類をばさっと置くと、煙草に火をつけた。

おれは驚いた。

そのライターの火は、正しいと感じた。

ガスの流れは透明で、不規則に揺れる炎の青からオレンジに向かう不思議な色を見ることができたのは女が煙草に火をつけるまでの一瞬だったが、その色と揺らめく形状は、神秘的なほど謙虚に正しかった。

おれは呆然として書類にサインしたかどうかも覚えていないが女も書類も消えたことから見ると、したのだろう。

女のあの縮れた汚い色の間違った髪に火をつければ良かったと閃いておれはむずむずした。そうしたらきっと正しくなる。あの汚い髪も、嫌な女も。

その晩は興奮して眠れなかった。気持ち悪い幻影ではなく、世界を正しくすることが可能だという発見による興奮で眠れなかった。

間違ったものには火を付けて燃やしてしまえば良い。次の日からおれは汚い髪をした女や、気持ち悪い形をした建造物を見ると頭の中で火をつけて回った。間違ったものが美しく燃え、やがて灰になる様を想像しては恍惚となった。

ある日書類が届いて、見ると、父親が持っていたとある山村の一軒家をおれが相続する、という内容だった。仕方がなく重い腰を上げ電車とバスを乗継ぎ、半日程かけて見に行くと、人が住まなくなって久しい雰囲気のうらぶれた、だがそれなりに大きな木造の家だった。あの女もこんな山奥の人気のない村のこの家は持て余したのだろう。おれはこの家も間違っていると感じたし、この家はおれのものだから良いだろうと思って火を付けた。

パチパチと最初は小さく壁の端が爆ぜていたが、やがて美しい色は広がり、妖艶にうねる炎が轟々と鳴いて、空気が熱と光を纏って激しく且つ軽やかに予測のつかないテンポで踊り出した。

ボロ屋も炎も無機物なのに、そこに命を感じた。いつの間にかおれは泣きながら、その生命のダンスを眺めていた。

そして間違っているのはすべての形だと思った。おれも、街行く人も、訳の分からない建物も、猫も、小さな道具も、その形に閉じ込められているのだ。本当は踊る炎のように熱く揺らめく形のない何かを秘めているのに、それは具現されることを許されないのだ。おれたちは皆、形の合わない箱に囚われた魂だ。

家を焼く炎と煙が天高く昇って行くのを眺めながら、そんなことを思っていた。

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